経営の神様 松下幸之助

今回は、皆さんご存じの松下電器産業を創設し、大企業にまで成長に導いた「経営の神様」松下幸之助を取り上げてみる。主な参考書籍は、ジョン・P・コッター著「幸之助論―「経営の神様」松下幸之助の物語」である。

 

幸之助は、リーダーの条件や経営の心得、経営理念や経営哲学について明確な持論をもつ経営者であった。それも経験を通し、内省と対話を繰り返してその持論を構築していった。

 

代表的なものとして「水道哲学」「ダム経営(無借金経営)」「雨が降ったら傘をさせ」などである。

 

 

松下幸之助の人生は、多くの偉人と同じように過酷な少年期から始まる。

 

幸之助は、1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村に、8人兄弟・姉妹の末っ子として生まれる。松下家は、小地主で多少は裕福であったが、父政楠(まさくす)が米の先物取引に手を出して破産。

 

9歳にして火鉢店、自転車店に丁稚奉公。
実は、この丁稚奉公から商売人としての人生が始まり、商売のコツを掴んでいったといってもよい。

 

幸之助は、学歴もなく、お金もなく、体も弱かった。そうした幸之助は、15歳まで自転車店で働いたが、そこを辞め大阪電燈幸町営業所に内線係として職を得た。

 

幸之助が20の時、井植むめのと結婚。

 

幸之助は、能力を発揮し、大阪電燈で昇進を重ねていたが、1917年そこを辞め自ら会社を起す。100円の貯金と妻むめの、井植歳男(むめのの弟)、他2名での船出であった。しかし、起業した年の10月末、製品は売れず5人で始めた小さな事業は3人になってしまった。

 

その年の年末に扇風機の碍盤の特注品を受注!! これを契機として息を吹き返した。

 

この時はまだ、幸之助が後世言われるような才能は見いだせなかった。ただ、働く熱意は人並み外れていた。そして、勤勉と競争心、夢を実現するという強固な意志を持っていた。

 

27歳で、2人の姉も亡くなり、両親、兄弟姉妹全員が亡くなった。
幸之助は、迅速さと低コストこそが有力な競争手段との思いから、工場の設立、求人活動など積極的な経営戦略を展開していった。

 

事業も拡大し、新たな施設が必要となり、1928年11月に工場建設に着手し、1929年5月に完成した。時期悪く、1929年10月29日、アメリカの証券市場が暴落。
松下電器への影響も甚大で、製品在庫の山が積みあがっていた。

 

体調を崩し、静養中の幸之助に、井植歳男らが経営危機と大規模な人員削減を相談に来た。この時、幸之助は「生産を半分にせよ。しかし、1人も解雇せず、給料もそのままとするが、全員が休日返上で在庫品を売ってもらおうではないか。」と命じた。
すると、翌年2月に在庫は適正水準となり、従業員は正規の持ち場に戻ることができた。

 

ラジオ事業に進出した際のエピソード

あるラジオ生産工場を買収し、第一号ラジオを販売したのは1930年8月。しかし、欠陥商品の山となった。幸之助は、工場長や技術者に欠陥のない製品づくりを命じた。しかし、工場長からの回答は、“欠陥ゼロのラジオは製造できない”というものだった。

 

工場長と技術スタッフは退陣し、新たに松下電器の研究部に開発を命じた。
「素人が非常に性能のよいラジオ・セットを組み立てているそうだ。そういう愛好家に比べれば、諸君には思いのまま使える施設と機器がある。市場にはすでに優れた製品も出回っている。それらをよく調べて、できるだけ短期間にそれを超える製品を作り出すべく頑張ってもらいたい。成功するか失敗するかはひとえに諸君の自信と決意にかかっていると確信している。こういうことを要求するのは、諸君は持てる力を出し切っていないからである。

 

幸之助の信念、確信が伝染し、研究者魂に火をつけた。結果、東京放送局(NHK)が主催した最高のラジオを選ぶコンクールで松下電器の試作ラジオが他のラジオメーカーを差し置いて一等賞を受賞した。

 

幸之助は、柔軟性と迅速さを尊重し、長い準備期間や膨大な開発予算を敬遠し、製品と事業のすべてが採算に見合うことを要求した。

 

これにより、常に製品の改良を図り、生産性を高め、他社モデルより安くて品質の良い価値ある製品を作り出すことを心掛けるDNAが醸成されてきたのではないだろうか。自ら製品開拓はせず、市場性ありと見たら勝負をかける。後に「マネシタ」と揶揄されるが、松下電器の真骨頂であると思う。

会社の社会的使命に気付く

1932年に幸之助は、知人に誘われ天理教本部を見学する。信者らの献身的で無報酬での仕事ぶりや熱気を感じ、啓発され、後に「真使命宣言」を行っている。

 

「真使命宣言」では、「産業人の使命は貧困の克服にある。社会全体を貧しさから救って、富をもたらすことにある。」会社の社会的使命を宣言し、同時に、「企業人が目指すべきは、あらゆる製品を水のように無尽蔵に安く生産することである。これが実現されれば、地上から貧困は撲滅される。」という有名な「水道哲学」を披露している。

 

1933年幸之助は、自らの経営理念を明文化した。それが、「松下電器の遵奉すべき精神」であった。1937年にさらに2つの“精神”が加えられた。J&Jの「我が信条」が発表される10年前のことであった。

 

  • 産業報国の精神---品質の高い製品とサービスを適正な価格で提供することによって、社会全体の富と幸福に寄与すること。
  • 公明正大の精神---取引においても個人の振る舞いにおいても公正と誠実を旨とし、常に先入観のない公平な判断を心掛けること。
  • 和親一致の精神---相互信頼と個人の自主性を尊重したうえで、共通の目的を実現するための能力と決断力を涵養すること。
  • 力闘向上の精神---いかなる逆境にあっても企業と個人の能力を向上させ、永続的な平和と繁栄を実現する企業の使命を達成すべく努力すること。
  • 礼節謙譲の精神---常に礼儀正しく謙虚であることを心掛け、他人の権利と要求を尊重することによって、環境を豊かにし、社会秩序を守ること。
  • 順応同化の精神---自然の摂理に従い、常に変転する環境条件に合わせて思想と行動を律することによって、あらゆる努力において、徐々に、しかし着実な進歩と成功を収めること。
  • 感謝報恩の精神---受けた恵みや親切には永遠の感謝の気持ちを持ち続け、安らかに喜びと活力を持って暮らし、真の幸福の追求の過程で出会ういかなる困難をも克服すること。

 

幸之助は、この経営理念を毎朝の集会で従業員に大声で唱和するよう通達した。そして、幸之助自らが使命と経営理念を深く信じて率先して行動することで範を示した。

 

事業部制の採用

1933年事業部制を考案し、会社を製品ごとに再編した。そして、個々の利益を追求するのではなく、共通の利益のために働く、つまりより大きな幸福に重きを置くという強力な企業文化を創りあげ、各グループの求心力を強めることに成功している。
この事業部制採用によって急速な成長が始まった。また、この頃から「経営能力のある人材の育成」にも力を入れ始めている。

 

この後、大東亜戦争と敗戦があった。
敗戦により、松下電器は、生産中止、財閥指定を受け壊滅状態。さらに、幸之助自身も会社から追放されたが、戦後2年目にして、松下電器の労働組合と販売代理店の請願により、幸之助の会社復帰ができることとなった。しかし、経営権を取り戻したのは4年後の1950年であった。

 

この間、松下電器の経営幹部のモラル(士気)が低下し、経営理念である7つの綱領が、朝の集会で読み上げられなくなっていた。幸之助が経営に復帰後、朝の朝礼で綱領の唱和を復活させたところ、事業は再び軌道に乗り始めたという。

 

幸之助が、現役復帰した1950年代から1960年代にかけて朝鮮戦争特需もあり、日本経済は破竹の勢いで上昇していった。その牽引役の一つが松下電器であった。

 

1956年の経営方針発表会で5年間で売り上げを4倍にするという攻撃的な売上目標を発表した。ことき付け加えた言葉が「売上4倍増の目標は名声や儲けを求めるためのものではなく、あくまでも、製造業者が社会に対して負っていると私が信じる使命を達成するための手段である」というものだった。

 

トヨタ自動車が松下通信工業(当時)の自動車ラジオ事業に対して、半年間で15%の値下げを要求してきた。ラジオ事業部の経営陣の不満に対して、「我々は今、世界の中でとりわけ激化するアメリカとの貿易競争に対処するために、日本に何が必要なのかを議論している。我が国の主要輸出産業は自動車です。アメリカと対抗するには、日本車を手頃な価格で買えるようなものにしなければならない。……トヨタから要求があるまで、手をこまねいていてはだめなのです。こうした要求を予測し、それに合わせられるように準備しておかなければならないのです。」と幸之助は指示している。

 

こうして、経営方針発表会での無謀にも思える売上目標(220億円から800億円)は、5年ではなく4年で達成してしまった。

 

その後、松下電器は、率先して週休二日制や欧米並みの賃金を実現していった。
幸之助は、こうした経営に際し、「素直な心」と「衆知」を重視した経営を行っている。

社長交代

1961年に娘婿の松下正治に社長に任命し、自らは会長に就任した。
会長就任後、幸之助が公職追放された年(1946年)に発足したPHP研究所の活動に力を入れる。

 

京都東山山麓の「真真庵」を活動拠点とし、幸之助は、経営、国家などの議論を交わしながら思想的、哲学的思索を深めていった。同時に、人間の本質を探究している。

 

1969年10月のある経営話談会で、自ら考える「松下電器発展の要因」と題した講演で、
成功の要因は、

  1. 電気に関する仕事が時代に合っていたこと
  2. 人材に恵まれたこと
  3. 理想を掲げたこと
  4. 企業を公のものと考えたこと
  5. ガラス張りの経営を心掛けたこと
  6. 全員経営を心掛けたこと
  7. 社内の派閥をつくらなかったこと
  8. 方針が明確であったこと
  9. 自分が凡人であったこと

と述べている。
「自分が凡人だから成功した」というところが幸之助さんらしい!
「吾凡人なるが故に素直な心で衆知を集める」ではなかったか。

 

そして、1979年松下政経塾を財団法人として設立した。
幸之助は、当時の政治家をこのように見ていた。

  • あまりにも短期的にしか物を考えない
  • 目先の結果ばかりを求めて、簡単に原則を放棄してしまう
  • 重大な問題にぶつかっていこうとしない
  • その多くが堕落し、ビジョンに欠けている
  • 真のリーダーなど一人も見当たらない

今の政治家にも相変わらず当てはまる内容だ。

 

そこで、塾生は次の5つの資質を育てるために選抜された。

  • 確固たる決断によってどんな障害も克服できるという誠実な信念を持つ。
  • 理想においても行動においても独立心を持つ。
  • すべての人の経験から学ぼうとする姿勢を持つ。
  • 旧弊な紋切り型の思考にとらわれない。
  • 他社と協力・協調できる器量を持つ。

 

幸之助は、無税国家論(国家による無借金経営)も説いているが、今のところ幸之助の真意を体現している塾生OBは見当たらない。元首相になった人もいたが...情けない。

 

松下幸之助は、“思いの力”“心の法則”組織で使った経営者である。彼の使命感が情熱となってほとばしり、従業員に感化していく。情熱が積極的チャレンジ精神を生む。
松下幸之助は、独創的、カリスマ的経営者であった。まさに“経営の神様”といっても過言ではないと思う。

 

最後に、松下幸之助の慈善活動を紹介する。
1963年 神戸のカナディアン・アカデミーのための体育館建設費用を寄付
1964年 子供の交通安全対策として横断歩道橋の建設資金の提供
1968年 青少年の交通事故防止のための寄付
1973年 社会福祉に関する寄付(子供のためにと用途を指定)
1975年 マサチューセッツ工科大学設立資金の提供
1977年 新潟県の国際大学設立資金の提供
1978年 ペルーの日本人学校建設資金を寄贈
1979年 大学院レベルの私的教育機関、松下政経塾を設立
1981年 ハーバード・ビジネススクールに100万ドル寄付
1984年 アメリカに松下財団、イギリスに技術者養成パナソニック教育基金を設立
1985年 スタンフォード大学に100万ドル寄付

 

松下幸之助最大の慈善事業は、1983年に創設された「日本国際賞」であった。この賞は、人類のさらなる繁栄の達成に貢献する研究を成し遂げたあらゆる国籍の科学者を称えるためのものである。なお、賞金は50万ドルである。