権威を示す「錦の御旗」と「軍旗」
「錦の御旗」という言葉がある。この言葉は、現在では「自身の主張に権威づけをするもの」を指す意味で用いられることが多い。正義あるいは大義は“我にあり”というもの。
本来の「錦の御旗」は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗のことをいう。略称を錦旗(きんき)ともいう。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗で、この日之御旗と月之御旗は二つで一組となっている。
錦の御旗は、朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習があった。承久の乱(1221年 承久3年)に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。
鳥羽・伏見の戦い(1868年 慶応4年)から始まる戊辰戦争では、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた。鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷は征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えた。
新政府(官軍)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。 …以上、Wikipediaより…
現代の企業における経営理念も、自社の存在意義や正統性を権威づけるための「錦の御旗」に相当する。
また、戦国時代にも経営理念に相当するものがあった。
武田信玄の「風林火山」、織田信長の「天下布武」そして、徳川家康の「厭理穢土(おんりょうえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」が有名だ。
武田信玄の「風林火山」は、戦場における心構えを説き、
織田信長の「天下布武」は、施政方針を明らかにし、
徳川家康の「厭理穢土・欣求浄土」は、政権を取ったときのビジョンを示している。
武田信玄の「風林火山」
- 疾如風 :疾(はや)きこと風の如く
- 徐如林 :徐(しず)かなること林の如く
- 侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く
- 不動如山:動かざること山の如し
この句は、『孫子』軍争篇第七(注)で、軍隊の進退について書いたものを、部分的に引用したもので、戦いのときに絶対に守るべき、4つの心構えを誰にでもわかるように説いたものです。
武田信玄は、家柄ではなく才能によって引上げ、武将として様々な部署に配置したり、武将ではなく全然名もない人でも才能によって抜擢して土木事業や農政という産業振興の実務に採用している(適材適所)。特に信玄堤、信玄秤などが有名ですね。
また、規定を定めた法律(甲州法度)をつくり、自身もこの法に違反したら注意してくれというお触れを出している(言行一致)。
もう一つ武田信玄にまつわる有名な言葉として次のものがある。
人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方、仇は敵なり
これは、武田信玄・勝頼の戦略や戦術を記した軍学書『甲陽軍艦』の中にある「衆心を城となす教え」としての教訓歌である。
信玄は、非常に家臣の命を大事にしていた。そして、武士の力だけでは限界がある、結局はその国の全体の力、すなわちそれを支える一人ひとりの民衆の力こそ頼りがいがあることを悟っていたのではないかと思われる。
「風林火山」という軍旗を始めとするこれらの信玄による富国強兵策によって、武田軍は当時最強軍団として他の武将から恐れられるようになった。おしむらくは、後継者を早く決められかったことがその後の武田家の衰退・滅亡に繋がったように思われる。
注)『孫子』軍争篇第七
孫子曰く……
故に其の疾(はや)きこと風の如く(故其疾如風)、其の徐(しず)かなること林の如く(其徐如林)、侵掠(しんりゃく)すること火の如く(侵掠如火)、知りがたきこと陰の如く(難知如陰)、動かざること山の如く(不動如山)、動くこと雷霆(らいてい)の如し(動如雷霆)。
織田信長の「天下布武」
「天下布武」の四文字は、当時美濃の大宝寺の住持であった沢彦(たくげん)和尚が贈ったものである。ちなみに、沢彦和尚は信長の名付け親でもある。
「武」とは、武力のことではなく「七徳の武」のことであると言われている。古代中国の古典『春秋左氏伝』(注)には、「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」とある。
その七つの目的とは...
- 暴を禁じる(暴力を禁じる)
- 戦を止める(戦争を止める)
- 大を保つ(大国を保つ)
- 功を定める(功績を成し遂げる)
- 民を安んじる(民を安心させる)
- 衆を和す(大衆を仲良くさせる)
- 財を豊かにする(経済を豊かにする)
信長は、この四文字を「自分の理想に合う言葉である」と言って喜んだという。そして、軍旗に仕立てた。
信長の狙いは、「天下に七徳の武を布く」という、七徳の武を備える平和な国づくりを目指すものだったと考えられる。
信長の凄いところは、「楽市楽座」という経済政策(商業政策)を敷いたこと、および堺の自由都市を制することが天下を取ることに繋がると考えたところである。そして、火薬を押さえ、鉄砲を押さえてその力で一時期ではあるが天下を取った。
注)『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)とは、孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。
徳川家康の「厭理穢土・欣求浄土」
家康がこの「厭離穢土・欣求浄土」を用いた経緯
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで総大将の今川義元を失った今川軍は潰走、義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢わずか18名とともに菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ込んだ。しかし、織田軍の追撃に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、この寺の第13代住職登誉天室(とうよ・てんしつ)に告げた。登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭したところ、元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。
即ち、「争いで穢(けが)れた国土を、住みよい浄土にするのがあなたの役目」と説得し、松平元康(徳川家康)の切腹を思いとどまらせた。
以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになったと伝えられている。
元々「厭離穢土」と「欣求浄土」はどちらも仏教用語であり、次の意味をもつ。
「厭離穢土」は、穢(けが)れた国土を嫌う
「欣求浄土」は、仏の世界を,心から喜んで願い求める
家康の馬印(軍旗)としての「厭離穢土・欣求浄土」は、「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」との意味である。(Wikipediaより)
結局、徳川家康は天下を取り、約300年の徳川時代の基礎を創った。家康は武田信玄を最も恐れる一人ではあったが高く評価し、多くを学んでいる。家康が天下を取るにあたって兵政を武田家の「甲陽軍鑑」を手本とし、武田信玄が作った「甲州法度」をもとに徳川幕府の憲法を定めている。