百戦百勝の韓信大将軍

韓信

私の好きな人物の一人に韓信大将軍がいる。

 

漢帝国建国の英雄・韓信は、秦の末期に淮陰(わいいん)という現在の江蘇省に生まれ(紀元前230年頃)、張良・蕭何(しょうか)と共に漢の三傑の一人と呼ばれていた。

 

その韓信は、幼少の頃、身分も低く貧乏な境涯であった。ただ、並外れた長身で大飯ぐらいの偉丈夫であった。従姉からは、飯を食らう木偶の坊と言われていたが、13歳にして古来の兵書、六韜(りくとう)六巻六十篇や孫子をそらんじるほどの勉強家であった。

 

この頃の逸話として、「韓信の股くぐり」というものがある。屠殺業者の若者からいつもコケにされており、あるとき街の中心街で「おい、韓信さんよ お前は背が高くいつも剣をぶら下げているが、身体と違って実際には臆病者なんだろう?臆病でないなら俺をその剣で刺してみろ。できないなら俺の股をくぐれ!」と挑発してきた。すると韓信は黙ってその若者の股をくぐり、周囲の人から嘲笑された。

 

韓信としては、「恥は一時、志は遠く一生。ここで人を殺しても何の得もなく、それどころか仇待ちになってしまうだけだ」と、冷静に判断したと推察される。

 

韓信は、秦の始皇帝の没後、最初は項羽に仕えていたが重用されないため項羽の元を抜け出し、次いで劉邦に仕えた。

 

最初はその将器(しょうき)がなかなか認められなかったが、漢軍の兵站の責任者である蕭何(しょうか)に何度も推挙され、ついには劉邦によって全軍を指揮する大将軍の地位に任ぜられた。

 

その後、彼は漢帝国(前漢)の樹立に百戦百勝の天賦の軍才を発揮した。

 

韓信は、自らの使命に対して「逃げない」、「責任回避しない」、「言い訳しない」人物であったと言われている。

 

劉邦から、(嫉妬からか?)きつい任務を与えられたり、格降されたりしたが、決して逃げたりしなかった。勿論、責任回避や言い訳もしなかった。

 

特に有名なのは、趙(ちょう)軍と戦った“井陘(せいけい)の戦い” である。

 

城にこもった20万の趙軍を前に、韓信の軍は4万3千。

 

しかし、劉邦の命により正規軍3万を返せといわれ、残された“寄せ集めの応募兵、たった1万3千”で立ち向かわなくてはならなくなった。

 

韓信は、このような状況下でも逃げず、責任回避もせず、言い訳もせずに正規軍を返し、戦いに挑んだ。

 

韓信は、この時、なんと古来のどの兵法書にもなく、邪道と戒められている“川を背にして退路を断った”のだ。いわゆる、自らが先頭に立って「背水の陣」を敷いた。

 

これを見て侮って城から打って出た趙軍に、逃げ場のない韓信の兵は、まさに鬼神の如く、不退転の獅子奮迅の戦いをし、これを見事に打ち破ったのである。

 

劉邦から預かった正規軍3万を返し、20倍もの相手を前にして戦わなければならない時に、私だったらどうするか。

 

さっさと引き返すだろう(逃げる)。そして、勝てるはずがないと言って、勝機を待ちましょうと報告する(責任回避し、言い訳をする)。

 

しかし、あらゆる戦いにおいて、韓信は逃げなかった。責任回避もしないし、言い訳もしなかった。

韓信 斎王から末期まで

後に、斉の国を平定した韓信は、その武功により劉邦から斎王を名乗ることを許された。

 

斎王になった韓信に、項羽も恐れを感じ始めていた。そこで、武渉を使者として斉に向かわせ、「漢(劉邦)、楚(項羽)、斉(韓信)と、天下三分して、楚と同盟を結んで漢を滅ぼす」ことを勧めた。

 

韓信は、「漢王は深い親愛と信頼で私を扱ってくださっているのに、それを裏切ることはできない。死んでも態度を変えるわけにはいかない。項王には、同盟を断る旨を伝えてほしい」と、それを退けた。

 

その頃、漢と楚は広武の谷を隔てて対陣していた。本国がガラ空きでさらに兵糧が尽き、また韓信が西楚の北部国境を襲い、楚の軍をしばしば撃破。劣勢だった項羽は憂慮して劉邦と盟約を結び、鴻溝を境にして天下を二分することとした。しかし、劉邦はこの盟約破り撤退中の楚軍を追撃した。

 

その時、劉邦は韓信に参戦するよう要請したが、韓信はこれを黙殺したため、劉邦は破れ撤退。焦った劉邦は、戦後の斉王の地位を約束し、再び韓信に援軍を要請した。

 

ここに及んで、韓信は参戦を決心、結集した30万の漢兵の全指揮を韓信に任された。漢軍はいったん敗走するも立て直し、垓下(がいか)に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江(うこう)で自決した。

 

こうして、漢の国が樹立された。その後、韓信の運命は激変する。大出世に嫉妬されて降格されたりし、劉邦からは自分の才能を恐れ憎んでいたと知り、韓信は鬱々とした生活を送りながら謀反の心が宿していった。ついには、劉邦の信頼の厚かった陳の謀反の計略に乗ってしまった。

 

最後には、韓信を大将軍に推挙してくれた蕭何の誘いを疑わず、信頼し、悲運にも捕らえられ、長安城中の宮中で斬られ、彼の三族も処刑された。

 

蕭何をして「国士無双」と言わしめた韓信、将としてあらゆる戦いに勝ち抜き、漢の国が樹立され、最終的に漢帝国建国という一大成果を結実させれば、まるでこの世の命など意味がないような、きっぱりとした最後だった。

韓信から学ぶ「真のリーダーとは」

真のリーダーとなるためには、いかなる状況にあろうとも「逃げない」、「責任回避しない」、「言い訳しない」ことを心掛けなくてはならない。

 

そこで、リーダーとしての器を作るための三か条を以下に掲げる。

 

① 逃げるな!
前例のないことはやりたくないなど、未知への恐怖から自分を守りたい(自己保身)。
しかし、逃げてはいけない、先頭に立ってチャレンジせよ。
リーダーが逃げたら、みんな逃げる。

 

② 責任回避しない!
誰々が悪い、景気が悪いなど、他人のせいや環境のせいにして責任回避する人は多い。
“私の仕事ではない“と言って責任回避する。
自己保身のために周りに先制攻撃する人もいる。
これは、自分を守る知恵ではあるが、リーダーとしては非常に醜い行為である。

 

③ 言い訳しない!
私を含めて、とにかく言い訳が多い。
金なし、人なし、時間なし、言い訳したらきりがない。責任回避するために、言い訳したくなる。これは、人間としての弱さである。

 

そういう私も、これまで逃げたこともあり、責任回避してきたこともあり、言い訳はしょっちゅうしてきた。

 

しかし、一歩でも真のリーダーに近づきたいという思いから、この三か条を紙に書いて私の部屋に貼ってある